2004.09.23

『日本近代美術論争史』(正・続2巻)中村義一著

タイトル:『日本近代美術論争史』(正・続2巻)
著者:中村義一
出版社:精興社
定価:各2500円
初版:昭和56年4月(正)、昭和57年7月(続)
ISBN:4-7630-8106-3(正)、4-7630-8210-8

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「近代」の「知識人」が「美術」を「論争」した記録の本である。
まずもって、難しくないわけがない!(笑)

本書で取り上げられた「論争」は、日本人に洋画は描けるのか?といった、近代日本の始まりの頃のお話から、裸体画の問題、西洋建築の受容と消化、 戦争画の評価をめぐる問題まで、またあるいは、特定の数名の個人的な論争から、かなり多くの知識人や世論を巻き込んだものまで、と多岐に渡る。

本文は、内容も限られたページ数の中、各論争について、事態を淡々と追い概略的に描かれている。
(もちろん、各項についてより詳しく知りたい人のために、参考資料などはとても丁寧に記されているが)
しかし、2冊を通して読むと、100〜50年前の日本人が、海の向うからやってきた「近代」を、どうやったら自分たちのものにできるのか?混乱と格闘の記録集!みたいな、なかなかの読みごたえを感じる。

そうはいっても、隅から隅まで読むと脳味噌メルトダウンしそうなので(@@;;)、取りあえず、自分が関心ある分野の項目を選んで読んでみた。

(読んだ項目、正編)
●大正アヴァンギャルドの青春−前衛美術論争
●傷だらけの美術運動−プロレタリア美術論争
●美術批評の指導力−美術批評論争
●日本近代美術の帰結と出発−リアリズム論争

(同、続編)
●『白樺』近代主義の争点−「絵画の約束」論争
●大都市芸術の目覚め−建築芸術論争
●民衆美術運動の<哲理>−自由画教育論争
●もう一つのシュルレアリスム−超現実主義論争
●美術史の空白と暗黒−戦争画論争

大体、この辺が私の興味とシンクロし、あるいは当たらずとも遠からじな部分なのだが、特に「ほほう」と思ったのは、「美術批評論争」と「超現実主義論争」だ。

美術批評論争というのは、近代日本において、作品をつくる作家というシステムが定着するに従い、じゃあそれの紹介なりその良し悪しを語るときに、語るにふさわしい人材とは何なのか?どのように語ることが望ましいのか?という問題を巡って、作家や美学者、新聞記者(マスコミ、と言えるでしょう)などが入り乱れて論争した時期のお話である。
確かになるほど、西洋の絵画表現や彫刻表現を消化するだけでも大騒ぎなのだから、西洋の「クリティーク」という概念を、どう解釈するか、また日本の社会文化の中で表現するかだって、近代日本美術の大命題だったはずだ。
今、美術雑誌や一般雑誌、新聞、ネット上でも、何てことなく美術展や作品紹介、批評を見ることができる。
ただ、一体この文章のどこが作品と関係あるの?と言いたくなるような、超難解&意味不明な文章や(私の脳味噌レベルの問題かも知れないが)、反対に「そんな説明したら誤解してまうがな〜」とツッコミたくなるような、読む人が読んだらデタラメな記事、作品評よりも、書き手の主義主張が立ってる(というか、主義主張のために作品を利用している)文章も、よく見かける気がする。
この論争から数十年たった今、美術批評が歩いてきた道は、本当にこの道しかあり得なかったのか?
もっと多様で深い観照態度を、より多くの人に分かりやすく語る批評は、もう努力し尽くされたのだろうか?
と、改めて思いおこさせる論考だった。

「超現実主義論争」を読んで、一番感じたのは「シュルレアリスム(本文に表記を合わせてあります)」ってのは、何て難しい概念なんだということ(大とほほ)。
しかも、この論考では、日本のいわゆる「シュルレアリスト」といわれたアーティストや批評家らを巡って、その概念の有効性が大論争になったが、問題は、「日本においてはシュルレアリスムの受容は外面的なものに過ぎない」、「日本でこの論争が起こった時期、ヨーロッパのシュルレアリスム運動は既に沈滞化していた」、さらに「シュルレアリストはプロレタリアートとの関連性のため、当局から弾圧を受けた」というポイントが非常に興味深かった(また私の知識レベルが暴露...)。
しかも、公安当局が、彼らの取り締まりのために、シュルレアリスムの概念をせっせと学び、滝口修造ら理論家と取調室で渡り合っていた、というのは、今だからいえるがちょっとマヌな感じでもある(苦笑)。

「プロレタリア美術論争」「自由画教育論争」「戦争画論争」あたりは、もともと関心があり、また私の主フィールドに定めている朝鮮半島の近現代史とも大いに関わる問題なので、まあ熱く読ませてもらった。
しかしよく考えれば、「プロレタリア美術」と「戦争画」は、現在の日本社会では殆どその脈が切れた状態である。
「自由画運動」は、戦後の美術教育における根幹として認知されているものの、現在の美術教育では、さらに「観照教育」あるいは「セルフ・エデュケーション的芸術活動」が求められている状態だ。
これらは、放っておいたら忘れられそうな近代のあだ花だといえるだろうが、例えばプロレタリアのそれは、80年代韓国の民衆美術運動の過程、その総括を論じるときの鏡にもなるのではないか、と思う。

著者はただ事実の順序を綴るだけで、答えは出さない。
それでも、端々に、論争のなかに結果的に不毛だったものがあったにしても、その中で本気で芸術をやっていた先人への想いが伝わってくる。
たしかに手強い本だったが、近代日本美術の理論的な面を、網羅的に把握できただけでも、十分読んだ価値はあると思える二冊だった。

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2004.09.13

『1930年代の美術』E・ルーシー・スミス著

タイトル:『1930年代の美術』
著者:E・ルーシー・スミス(多木浩二・持田季未子訳)
出版社:岩波書店
定価:5200円
初版:1987年7月
ISBN:4-00-001179-0

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読後感を整理し切れていないのだが、図書館の返却期限がやばいので、取り急ぎ...(大汗)。

サブタイトルに 不安の時代 とあるように、1930年代を、いわゆる近代美術の百花撩乱期ではなく、『ヒトラーと退廃芸術 <退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>』
http://gozar.cocolog-nifty.com/meongmoengi/2004/08/__3.html
のように、さまざまなイデオロギーと社会不安、国際情勢の不安が入り組んだなかでの美術活動とは?という視点で描いている。
翻訳書であること、また著者の語り口に多少クセがあるのが気になるが、訳文がいい感じで、文章を平易に、雰囲気を柔らかくしているのでは?と思える。

本書の原書は85年に出版されているが、革命以降のソ連の捉え方は、『全体芸術様式スターリン』
http://gozar.cocolog-nifty.com/meongmoengi/2004/05/post_5.html
と共通する点が多い。
同時に、ソ連に限らず、さまざまな地域の潮流を取り上げているのが、個人的にこの本の気に入っったところだ。
もちろん、訳者も指摘しているとおり、アジア・アフリカ地域の状況がすっ飛ばされているのは気になるが...。
(まあそれは欧米研究者のお約束だしね・笑)

特に「ロシアにおける社会主義リアリズム」については、スターリンが新19世紀の<移動派>等から受けた影響に言及して特徴づけ、30年代のモダニズムの潮流からは突出して危険視されていた、としているが、一方で、内実は北米やラテンアメリカにおける社会主義リアリズムからの影響の大きさを描き出し、多様な展開をしていたことも説明している。当時のアメリカ大陸では、コミュニズムが進歩的な思想のひとつというか、トレンドであったことが、美術界からも伺える。
訳語では、真っ当なスターリン主義的美術と、その他の社会運動的なものを区別するために、アメリカの「FPA」などに参加した作家らの活動を著すのに、「社会的リアリズム」ということばを汎用的に使っていた。

それにしても、私も今までここで、随分「社会主義リアリズム」という用語を使ってきたが、そうとう安易に、むちゃくちゃに使ってきたのかな(誤用の箇所を自分で指摘できない・汗)。
私もこれからは、「社会的リアリズム」という用語も、もう少し意識してみようかと思う。

個人的に、1930年代のなかで、イギリスも含めたヨーロッパとアメリカのデザイン潮流を同時代的に論じる文章には、触れる機会も少なくないが、ファインアートのそれはなかなか見あたらなかったので(単に不勉強なだけか?)そういう点でも新鮮に読めた一冊だった。

うーん、いまいち通り一遍な書き方になってしまった(汗)
なんだかんだ言って、全然消化できてないのか、わし。おそまつ...。

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2004.08.24

『セルフ・エデュケーション時代』川俣正+ニコラス・ペーリー+熊倉敬聡 編

タイトル:『セルフ・エデュケーション時代』
著者:川俣正+ニコラス・ペーリー+熊倉敬聡 編
出版社:フィルムアート社
定価:2200円
初版:2001年12月
ISBN:4-8459-0127-7

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この本も、実は読後1ヶ月を経過してしまった(大汗)。
というか、正直、ちょっと感想を書くには、難しい(難解なということではなく)本だなと思って、うだうだしていた。
本来なら、この本を読む前には、川俣正氏の『アートレス』を読んでおく必要があったと思う。
そうしないと、個人的には、その順序をすっ飛ばして、この本だけで「セルフ・エデュケーション」を語れないな、という感覚があったからだ。
ただ、また全部忘れてしまうとそれはそれで大変なので、現在記憶に残るところを少しだけ。

川俣正氏の活動をご存じな方なら、未読でも内容の察しはつくかと思うが、いわゆる、一般参加型のアート・プロジェクトや、コミュニティによる文化活動を通じて、「セルフ・エデュケーション」という、社会教育のひとつの代案を提示する、というのが、本書の概要といえるだろう。
私としても、過去にアートプロジェクトのスタッフなどをした経験もあり、この手のテーマには、非常に惹かれるものがある。
ただ、読みながら、どうにも微妙な「違和感」を感じてしまう。
マニュアルらしくないマニュアルを読んでいる感覚というか、事例紹介の中にいきなり、「さあ、あなたもプロジェクトを作ってみましょう!」というような煽りが出てきたり、具体的なガイドブックを目指しているようでありながら、徹底して実用的でもなく、結果的に、妙な教条的というか、悪いことばで言えば、タカビーな感じを受けてしまうのだ。

そうした手強さが感じられるのは、たぶん、その独特な編集手法からではないかと思う。
本書は、文中でも事例として挙げられている「パラテクスト」「インターリーディング」というテクストの編集方法が誌面に使われているが、これが私の性に合わないのだろう。
パラテクストは、具体的には、本文の内容の要約が、誌面上部にちょこちょこ入っていることを指しているのだが、ついつい「大きなお世話!」と突っ込みたくなってしまう。
また、「インターリーディングの発送によって必要原則を散布してある」と、本文目次凡例にあるが、これも、その事例から何を学ぶべきか、どう解釈するべきかが各項にくっついてくるので、なれていないと、構成自体が散漫な印象を与えてしまうだろう。

っていきなり書くと、私がこの本と、提唱している内容の批判をしているように見えてしまうが、私は川俣正氏の大大ファンである(爆)。
とくに、屋上看板の後ろや工事現場の片隅に個室を作って、実際に住んでみる『東京プロジェクト:ニューハウジングプラン』では、氏のプロジェクト報告会を聞きに行ったが、話が面白く、人当たりも良く、「普通さ」を忘れない、素晴らしい作家であり人物だなと、ひたすら尊敬してしまった、勿論今もそうだが。
私の生家のママが、彼のバラックの作品をテレビで観て「面白い作家さんがいるのね〜」と、それは感心していたくらいだから、幅広い訴求力のある作家さんだな、とも、その面でもとても素晴らしいと思う。

それに、本書で取り上げられている事例の多くは、率直に私の心を打つものだし、日本の教育やコミュニティ活動に取り入れたらいいのに、と思えるものも少なくない。
特に、ニューヨークの犯罪地帯で行われている子供たちの絵画運動、ロサンゼルスの壁画運動、新たな美術鑑賞教育のメソッドなどは、とても興味深い。
#またも話が韓国ネタに逸れて恐縮だが、70年代にロスやシカゴで展開された市民壁画運動は、80年代の民衆美術運動にも、理論的に大きな影響を与えている。

文句タレなのか、ベタ褒めなのか、はっきりしろよ、と言われそうだが、実際私のなかでも、読後感が複雑なのだ(苦笑)。
ただ、こうしたプロジェクト型のアート、またコミュニティ活動に関心がある方は、一読に挑戦してみることをおすすめしたいと思う。
今後『アートレス』を読んだら、この本への印象も、変わるかも知れない。
そうしたら、もういちどこの本のことを振り返ってみます。


ひとまず、川俣正氏の公式サイトを紹介して、締めさせていただきます。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~onthetab/

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『すぐわかる 画家別 近代日本版画の見かた』岡本祐美+西山純子+滝沢恭司+今井圭介 著

タイトル:『すぐわかる 画家別 近代日本版画の見かた』
著者:岡本祐美+西山純子+滝沢恭司+今井圭介 著
出版社:東京美術
定価:2000円
初版:2004年2月
ISBN:4-8087-0751-9

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最初に読んでから1ヶ月以上経って、既に図書館にも返してしまったので、あまり詳しく書けないのだが、とりあえず覚えていることだけでも、簡単に...。

最初手にしたときは、今年に入ってからの近刊なので、今さら近代日本版画入門って!?な感じもあったし、いわゆる「お買い物ガイド」(苦笑)なのかと思っていた。
ところが、いざ読んでみると、先の『カラー版 世界版画史』
http://gozar.cocolog-nifty.com/meongmoengi/2004/07/__2.html
と同様に、版画史と印刷史との関連性、版画の社会的な役割や意味、刷師の時代から「自刻自摺」への移行、またモダニズム美術運動の中で版画が占めた位置、こうしたものを、作家評伝を通じてしっかり押さえている。

私がとくに関心を持っている時代、山本鼎以降の創作版画運動、大正期はじめの版画ブームの実体、当時の版画同人誌『方寸』『月映』、さらに昭和の版画集『新東京百景』についても、ページを割いて解説されている。
各作家についても、一人当たり見開き2ページの限られた誌面のなかで、それぞれの生い立ちと作風の特徴を、丁寧に紹介している。
全体を通じて、近代版画運動の系統はもちろん、その活発さ、表現の多彩さが伝わってくる。
オールカラーなのもありがたく、簡便ながら充実している、なかなかの良書だと思う。

うーん、やっぱり藤巻義夫はいいなあ、小野忠重は、日本版画史において外せない人物だな〜、と、あらためて痛感(結局そこに落ち着くんかい>自分)。

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『ヒトラーと退廃芸術 <退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>』関楠生著

タイトル:『ヒトラーと退廃芸術 <退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>』
著者:関楠生
出版社:河出書房新社
定価:2400円
初版:1992年10月
ISBN:4-309-22234-X

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ナチ時代の文化プロパガンダについては、検索してみたら、既に先行研究がたくさんあって、私のような者が、本の感想など書くのも恥ずかしくなってしまったが、それでも浅学なりに(汗)思うところがあるので、ご笑覧いただければ幸いでありんす。

「退廃芸術」という単語だけは、前からちらちらと耳目に触れていた。
だが、それがどのように定義づけられ、どんな扱いを受けてきたか、具体的には勉強不足で詳しく認識していなかった。
そして何より、退廃芸術があるのなら、その反対の「非」退廃的な芸術って、何なのよ。
退廃芸術ということばの露出度とは反対に、それら「ヒトラー御用芸術」がどんなものであったかについては、浅学な私でなくとも、それほど広く知られてはいない分野ではなかろうか。

本書は、日本人のドイツ研究者が、1937年の「退廃芸術展」を核にして、退廃芸術の行方、また御用芸術の扱いを調査しまとめたものだ。
ワイマール政権からナチス政権への流れ、また1930年代までの、モダン・アートの大勢を、大掴みに知っていれば、決して難しくなく、むしろとても読みやすい文章になっている。
しかも、それでいて、内容はさまざまな資料をもとに、多角的に考察されており、研究文献としても十分役立てられるのではないだろうか。

本文では「退廃芸術」の名のもとに、当時の先端表現であった、表現主義以降の芸術表現がことごとくドイツ国内から排除され、あるいは「退廃芸術展」で晒しものにされる過程が綿密に描かれており、その部分だけでも十分に読みごたえはある。
しかし、私がもっと関心を持ったのは、「退廃芸術」の反対にある、「健全」でかつ「ゲルマン民族の美を湛えた」とされる作品群、作家たち、彼らの活動だ。
当局は「退廃芸術家」の排斥をすすめる一方、「大ドイツ芸術展」の開催などを通じて、これら「健全」な美術を広めて行こうとした。
本書では、なかなかメディアに表れにくい、この作品群の図版が、多数紹介されている。

私は、ご覧のとおり(笑)民族崇拝も社会思想関連も、語るにはまるでお門違いな奴だが、特定の社会運動や思想に向かって表現を行おうとするとき、それらの作品がどんな特徴をもつのか、という問題には、思想の方向性に関係なく、関心を持ち続けている。
芸術のあり方は、いつでもどこでも、その時代や地域と深く結び付いてきた。
しかし、特に近代社会に入って、芸術は特定の社会運動に意識的にコミットしはじめ、運動の理念をビジュアル化するメディアとしての役割を、積極的に担うようになった。
ロシア革命から、アジアに、中米に、アメリカに広がったプロレタリア美術、最近では70〜80年代韓国の「民衆美術運動(私の守備範囲ですが・汗)」、また、別の脈絡で、北朝鮮の「人民芸術家」なんかもそういえるだろう。
話を広げて、1930年代の欧米での全体的な美術潮流については、別途読んだ本もあるので、また次の機会に...。

話を戻すが、ナチスドイツの公認芸術がどんな作品なのか、本書で初めて目にした。が、...硬い、ひとことで言って、キツい、というか、つまんない(苦笑)。
例えば絵画であれば、絵のなかの人物が、いきいきして見えないのだ。。
登場人物は「ゲルマン民族の美しさ、健康さ」を具現化した姿でなければならず、弱々しい描写、また他民族(特にユダヤ系的に見える)の表現には、容赦なく「退廃的」のレッテルが貼られた。
結果的に、それら親ナチ美術の表現は、どんどんステレオタイプ化、また記号化していく。

この記号化というのが、やっかいな奴だ。
為政者側からすれば、芸術を自らの広報手段として考えるとき、それはできるだけ多くの人=大衆にとって、分かりやすいものでなけばならないだろう。
そうすると、表現は「記号」=民族の典型像、大家族(ナチスは多産を奨励した)堂々とした農民、勇ましい軍人etc.を多用するようになる。
流行りの言い方をすれば、右脳的 感性で創作、観照するのではなく、左脳 記号の解釈として創作、観照する作品、といえる。
現代の新しい、多様な美術表現や、その観照マナーに慣れている身としては、カタい、つまんない、のびのびして見えない、と感じられるのも無理はない。

もっとも、これは著者も指摘しているとおり、親ナチ運動の旗振りをしていた作家たちが、その政治力に比べて、実力の方は...(汗)だった、という実情も、関係あるかもしれないが。

私がこの本で最も気になっているのが、最終章の、大戦後の話だ。
「大ドイツ芸術展」当時のいわゆる御用作品が、1974年に再度展示されることになった。
ナチ時代は、ドイツ史のなかでも大きなトラウマであることは周知のとおりだが、やはり展示にあたっては反対意見も多かったとのこと。
ところが、いざ公開してみると、「難解な抽象美術よりこちらの方が心地いい」「こうした家族像こそ、私の観たかった絵だ」という反応が、意外に多かったというのだ。
これらの多くは、別にナチ時代への潜在的なノスタルジーがあるとか、あるいはネオナチの対等とか、そういう問題とも違う(いや、現実にナチの再検証が進んでいた時期だけに、そういう憂慮もあったそうだが)、単に「分かりやすい絵が好き」という観照態度も少なくなかったのだ。
観照する側の感性や、美術への知識を云々して、彼らを「見る目のない大衆」と言ってしまうのは簡単だ。
だが、この出来事は、美術作品と社会、個人のあいだの関係性を、改めて問いかける、重要な問題ではないだろうか。

例えば、先に挙げた旧ソ連の社会主義リアリズム美術、メキシコ壁画運動、韓国の民衆美術、すべてに共通した表現課題は、美術教育から疎外されてきた階層に、どういう表現で運動のメッセージを伝えるか?だった。
そのときまず考えられるのは、できるだけ多くの人に「分かる」表現で、という共通認識だ。
大衆に受け入れられる「分かりやすさ」と、芸術としてのクォリティとを、どう両立させるのか、それが、社会運動と美術が結びつくときの、大命題だった。
しかし、それは、確実に送り手の意図通りのメッセージを、受け手に伝えることができるのか?
あるいは、上のドイツの例のように、その作品が作られた社会背景と、作品とを切り離した場合、作品が当初表そうとしていたメッセージは、変化してしまうのだろうか?
例えば、親ナチ作家が当時作った彫刻作品が、後年、旧東ドイツのスローガンと共に設置されていたこともあったそうだ。
また私が初めて、韓国の「民衆版画」を観たとき、こんな木版画で、どうやって社会を動かそうとしたのだろう?と思ってしまったのも、ある意味、無知が招いた誤謬ともいえる...。

もう一つ別の面から考えると、ある集団が社会変革を試みるとき、ナチのようないわゆる帝国主義ファシズムだろうが、韓国の民衆美術のようなボトムアップな労働運動だろうが、結局同じ方法論を使っている、という問題も、看過できないところだ。

...うーん、うまく文章が結べないが、1930年代のある状況を、過去の史実に終わらせず、現代のさまざまな美術運動、また美術と社会、個人の関係を見つめ直すときの、ひとつの指標として生かして行きたい、これでひとまず、私の読後感のまとめとしておきたい。すんません...。

最後に、この本を読んで、彫刻家の「エルンスト・バルラハ」に、ものすごくはまってしまった。
彼の作品は「退廃芸術」として多数紹介されていたが、こんなに心を動かされる作品群が、戦後まで議論を呼ぶことになるとは...、もちろん、個人的な感情で言ってるんですが。

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2004.08.19

『アイデア』No.306:原研哉のデザイン

タイトル:『アイデア』No.306(9月号)
出版社:誠文堂新光社
定価:2910円
発売:2004年8月

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最近は、図書館でもあまり手に取らないか、ぱららっとめくってそのまま棚に返すことが多かった(汗)、『アイデア』。
ところが、今回は、割と地味なデザインが多い文芸系雑誌の棚で、さらに真っ白なのに、なぜかピカピカと目立って見えた表紙があるな〜、と思ったら、同誌の「特集:原研哉のデザイン」だった。

原研哉氏といえば、最近では「無印良品 家」などの広告をディレクションしている方、と紹介すれば、通りが良いだろうか。
原氏のデザインについては、アルコール類のパッケージデザインが印象的で、前から関心を持っていたが、氏のデザインをことさら意識するようになったのは、『DESIGN COMPLEX』(だったかな?)に連載されていた、「リ・デザイン」というプロジェクトだった。
毎回ある「もの」を取り上げ、その材料や用途、現在のデザインなどを分析した上で、デザインし直す(リ・デザイン)の可能性を提案する、という企画である。
#要は、今フジテレビで放送中の『ニューデザインパラダイス』の元ネタで(笑)、それをより専門的に論じたものだと思っていただければ...。

当時、美術系の学校も出ていないのに、いきなり広告部のような部署に放り込まれ、高専デザイン科卒の上司に「デザインは因果関係で考えるんだ!デザインには根拠が要るんだ!」としごかれていた私にとって、原氏の文章、またデザインへの深い思索は、私の「デザイン理屈(まだ理論まで行かないな...)」を、それなりに鍛えてくれた、大切な参考書のひとつだった。

勤め人時代はことさらに、仕事絡みで(というかかこつけて)デザイン関連の展覧会に通ったものだが、いろいろなクリエイターのデザイン作品が並ぶ中でも、原氏のデザインは、特に惹かれるものがあった。
私がまとめるのもおこがましいが、一言でいうと「シンプル」「白い」、そして「強い」印象が残るのだ。
それは、デザイン要素をギリギリまで削って、極力シンプルななかに、製品のコンセプト、イメージを強く光らせる、まさにストイックなデザイン作業の産物ではないだろうか。
『日本デザインセンター 原デザイン研究所』のサイト
http://www.ndc.co.jp/hara/index.html
を観ていただけると、氏のデザインが、デザインする対象のコンセプト、またデザインへそのものの理念を、とても大切にされていることが、お分かりいただけるだろう。
(上に書いた「リ・デザイン」の連載は、後年「Re Design 展」として具体化した)

今号の『アイデア』でも、特集ページのデザインを、全て原氏がディレクションしているようだ。
http://www.idea-mag.com/
掲載作品は、研究所のサイトと大半かぶっているのだが、唯一初公開、というのが、『北京オリンピック』のシンボルマーク最終エントリー案だ。
優秀賞に選ばれたが採用されなかったものを、今回五輪委員会の許可を得て、公開できるようになったそうだ。
これはすごい....。驚いたというか、久々に、シンボルマークの類を見て感動した。
中国ものなので、さすがに「白さ」はなかったが、とにかくデザインのアイディアがびっくり、また実際のツールへの落とし込みがとても見事で、一瞬、東京五輪の亀倉雄策氏のそれを彷彿とさせる完成度を感じた。

記事中には、原氏へのロングインタビューや、関係者のことばなども載っており、こちらも面白い。
とくに、サイトウマコト氏のコメント中で、「原君のデザインに欠点を挙げるとすれば、宗教がかっているところ」という主旨のことばが、「なるほど〜」と、結構ツボに入ってしまった(謎)。


しかし、連れ合いと二人で、一冊まるまる読んだ後、
「いや〜、いいねえ、読み応えあったねえ〜」と感慨にひたりつつ、
「でもねえ、実際問題、白けりゃいいってもんじゃないのよ!白はすぐ汚れるの!白いだけで贅沢なんだよ!」
と、思いっきり、現実に自らを叩きつけてしまった我々...。
これが悲しいかな、「ちゃぶ台内職」の、厳しい内実なのだ、ちゃんちゃん(泣)。

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2004.07.25

『カラー版 世界版画史』青木茂監修(共同執筆)

タイトル:『カラー版 世界版画史』
著者:青木茂監修
(青木茂、内田啓一、河野実、小勝禮子、佐川美智子、杉野秀樹、高木幸枝、滝沢恭司執筆)
出版社:美術出版社
定価:2500円
初版:2001年6月
ISBN:4-568-40060-0

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もともと、この本は以前に一度、ざーっと読んでいたのだが、思うところあって、もう一度手に取ることにした。
#とか言いながら、このテキストの最初の「下書き保存日」は、5月10日...、2ヶ月以上ほっといてどうする(汗)。
ここ1年くらい、版画、特に木版画についてずっと考えていたことがあり、それが現在ある文献類のなかで、どの程度論じられているものなのか、確認してみたかったのだ。
それは「ある時代または社会状況においての、木版画の存在意味」と「現代社会における、メディアとしての木版画の妥当性」というものだ。
いきなり、ちょっとトンデモっぽい命題で、すいませんね〜、ほんとに(苦笑)。

でも、実際に図書館で、版画に関する本を探してみるとどうだろうか。
当然というか、版画の技法本、作品集、作家評伝の書籍は、どこでもそこそこに揃っている。
しかし、版画史は美術史と同時に、印刷史ともリンクしている。
そうすると、印刷の社会的な役割や意味と同様に、木版画のそれも、時代や社会によって変化したという論じかただって可能なわけだ。
だが、こうした面から版画の歴史を論じた文献は、実は意外に少ないのだ。
そこで、この『世界版画史』であれば、時代の流れ、社会の変化と版画との関連性が、幅広い地域、時代を通じた大極的な視点から、ある程度は書かれているかな、という期待を抱きつつ、再読を思い立ったのだ。

前にもちらと書いたが、私の以前からの大きな関心事として、80年代の韓国民衆美術、特に民衆版画運動の経緯と成果を再検証してみたい、ということがある。
韓国において「民衆美術」と呼ばれるジャンルは、上記の通り、80年代の民主化運動の中で、労働者階級への効果的な情宣活動、および文化における社会階級の打破を掲げて展開された運動だ。
壁画、大型の掛け絵、絵画作品などとともに、重要な表現技法として扱われたのが「木版画」だった。
なぜ民主化運動家らが木版画を選んだのか?
それは、朝鮮半島の伝統美術として木版を再照明するとともに、木と刀と紙という、ごく日常的な道具、加えてインク(それは市民運動の現場のガリ版の部屋にあったはずだ)さえあれば、低所得の労働者にも可能な表現手段だったからだ。
基礎教育さえまともに受けられない下層労働者(80年代前半の韓国には実際にいた)に、自分達の日常や労働の苦しみ、社会へのメッセージを進んで表現させ、それを通じて労働運動に参与させるには、文章よりも絵、それも手軽でシンプルかつ、大量複製の可能な木版画が適当だとされたのだ。
大量複製が可能ということは則ち、これまで声を持っていなかった労働者自身に、木版画という「メディア」を持たせることでもある…
彼らの版画運動(=木版画)は、魯迅の「木刻運動」を大きな思想的ベースとしている。
木刻運動をご存じの方なら、上のロジック自体が、木刻運動の影響を受けていることがお分かりいただけるだろう。
実際に木刻運動では、ケーテ・コルヴィッツらヨーロッパ、ロシアの作家と作品交換をおこない、版画集として本にまとめられた。
思想・運動メディアとしての木版画、という魯迅の目標は、これらの活動によりある程度具現化されていた。
(蛇足だが、彼らの壁画運動は、メキシコ革命後のそれや、60〜70年代アメリカの市民によるそれの影響によるものである)
私が「現代社会における、メディアとしての木版画の妥当性はどうなん?」なんてことを口走るのにも、近現代のこうした版画運動にコミットしてしまったからなのだ(汗)。

いきなり話がワープ状態で恐縮だが、5月にかろうじて残しておいた読書メモ(たいそうなモノじゃないっすよ、付箋に走り書きしただけっす)を整理してみる。
当初の目的通り「(木)版画と周辺の社会環境」というコードでピックアップした。

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■第1章:版の原理と起源+中国の版画
●P18〜19
1931年、魯迅、暑期木刻講習班開催。
ソビエトの挿絵版画、カール・メッフェルト、ケーテ・コルヴィッツらからの影響。
日本から、永瀬義郎『版画を作る人へ』、料治熊太『白と黒』、神戸版画の家『HANGA』らからも影響。
革命プロパガンダ的複製木版画を試みる。
●P20
朝鮮時代、民画の発達のなかで、版画による民画表現は、肉筆画に押されて少ない。

■第3章:日本の近代—明治前半+版画運動の時代
●P38
明治期の版画...
30年前後まで、「版の絵」と称される。商業用途。木版、銅版、石版、木口木版などが使われる。
30年以降、印刷技術の発達と機械化により、商業利用よりも「作家の版へのこだわり」に重きが置かれるようになる。
●P42〜45
木口木版の利用...出版活動、新聞などの挿絵に盛んに用いられる。

■第8章:19世紀—石版画の登場+挿絵と風刺(西洋の版画)
●P142
1840〜1880年代、木口木版による挿絵印刷が盛んになる。
1880年代以降、写真印刷の発達とともに衰退。

■第9章:現代—“巨匠”の時代+工房の発展
●P136
写真製版の実用化>印刷メディアとしての版画の衰退>美術作品としての版画「版表現」に重きが置かれる。
●P139
多色刷りポスターの人気>ゴーギャン、ムンクらが版画を制作。
●P153〜156
20世紀初頭、ドイツで版画独自の表現を追求する動き
1905年「ブリュッケ」、キルヒナーらによる木版表現の復興(プリミティブアートへの関心の高まり)
運動はミュンヘンに移動、詩画集の出版が盛ん。
●P156
ドイツ、ワイマール政権下...表現主義、バウハウスによる版画制作。

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ざっと以上の記述がみつかったが、通史としてはよく扱ってくれたという感じだが、細かいところではやはり物足りない。
例えば、ロシア・アヴァンギャルド以降の、ソ連の版画(出版)表現、またプロレタリア版画運動の広がり、小野忠重の版画研究など、もっと知りたいことはあるんだが...。
まあ表現主義とかプロレタリア関係は、そっちの専門書を読むとか、時代やイズムの区切りでピックアップしていかないと難しそうだわ、私のトンデモテーマは(とほ)。

書評というより、個人メモに終始してしまい、重ねてすみません。
まあ、こういう脳味噌の運動をしてる奴もいるのね、というスタンスで感じていただければ、それでいいです(笑)。

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『書店の近代 本が輝いていた時代』小田光雄著

タイトル:『書店の近代 本が輝いていた時代』
著者:小田光雄
出版社:平凡社
定価:740円
初版:2003年5月
ISBN:4-582-85184-3

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タイトルまんま(こら)、江戸後期から第二次大戦前に至るまでの「書店」について、その商法や社会的、文化的役割、また流通機構の変化などを、書店の社史や、作家のエッセイなどを通じて考察している本だ。

前に感想を書いた『モダン都市の読書空間』
http://gozar.cocolog-nifty.com/meongmoengi/2004/06/post_2.html
が大正〜昭和10年くらいまでを対象としているのに対し、こちらは特に、明治期の出版模様、書店模様が充実しているので、その部分をとりあえず補おうかと思い、手に取ってみた。

この本で興味深いのは、近代の書店のありようが、証言的な資料を引きながら、いきいきと語られているところだ。
江戸時代〜明治初期の書店は、これも前に書いた『絵とき 百貨店「文化誌」』
http://gozar.cocolog-nifty.com/meongmoengi/2004/04/_.html
に出てくる江戸〜明治の呉服店のような、いわゆる座売り形式で、店頭で注文された本を、店員が奥の在庫に取りに行く、という売り方だったらしい。
よく考えれば、至極当然のことなのだろうが、改めて「あっそうか、そりゃそうだよな、本屋といえば何でも陳列立ち読み、と考えるのは、近代以降なのか」と気づかされた。
他にも、明治期に専門書を取り扱った書店たちの活躍や、丸善など老舗の書店が、どのように洋書店として輸入販売を行っていたのかなどが描かれており、とても面白い。
特に、義務教育制度による教科書出版の需要が、大規模な図書の流通ルートを全国的に広げ、競争が加熱するあまり、歴史年表でおなじみの?「教科書疑獄」につながった、というくだりは、思わず膝を打った。
他にも、プロレタリア専門図書の行商販売(!)や、エログロ洋書の翻訳出版秘話、ダダ&アナキズム専門書店の話など、出版史のメインストリームから外れた、こぼれ話も載せている。

しかし、各項目は大体10P以内でまとまっているだが、それを読みやすいと思うか、物足りないと思うか、意見が分かれそうだ。
個人的には、何かの連載ものとして書かれた文章の集まりであれば、それで合点も行くが、書き下ろしとして見てしまうと、突っ込み不足の感は否めない。
前提は全部出てきた、さあそれで?というところで、あっけなく文章が終わってしまうのだ。
考察の裏付けになっている資料が、文学関係者のエッセイや、回想記的な文章が多いことも、突っ込みの甘さを感じさせてしまい、極端なことを言えば、良くも悪くも引用文を積み上げ再構成している、という印象が強い。
文学ファンにとっての裏話的読み物としては、そういう構成が面白いのかもしれないが...。
近代日本における書店が、本と人、人と人との出会いの場であった、という作者のまとめも、気持ちは分かるのだが、その方向に文章を意図的に向けようとしてる感じも無きにしもあらず、というところが、少し鼻についた。

どうしても『モダン都市の読書空間』と比較してしまうのだが、こちらは参考資料も統計資料が多く、理論の展開は研究論文形式に近い。
研究誌などに発表されたものを、再構成した文章だからかもしれない。
著者の推察が、数値的にビシバシと裏付けられていく過程の面白さに、読みながらぐいぐいと引きつけられた。
あと、本書で、特価本市場や「日本出版配給株式会社」までを話題にするのであれば、『モダン都市...』で取り上げられた「回読会」も、流通機構の一環として、触れて欲しかったなと思う。
著者としては、雑誌よりも図書に重きを置いて書きたかった、その意図も分かるのだが...。

さっき「文学ファンにとっての...」という言い方をしたのだが、実は私、人生の大半を本好きとして過ごしているのに、明治〜昭和前半の近代日本文学は、教科書もの以外、殆ど読んでいないのだった(激汗)。
だから、この本に近代文学ファンにとってのツボがちりばめられていても、その有り難みが、いまいち分かってないのかもしれない。
逆に、物語ものより論文ルポものの方が好きだから、『モダン都市の読書空間』の方が、「ツボ」にはまるのだな、きっと(笑)。

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2004.06.30

『カラー版 20世紀の美術』末永照和監修(共同執筆)

タイトル:『カラー版 20世紀の美術』
著者:末永照和監修(共同執筆)
出版社:美術出版社
定価:2500円
初版:2000年6月
ISBN:4-568-40056-2

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美術に関心のある方にはおなじみの、美術出版社「カラー版」シリーズ。
その分野に入門する時はもちろん、私のように、うっかり分不相応な専門書を読んだりしてしまい、おのれの知識を再整理する必要に激しくかられ中...(大とほほ)な人にもありがたい(大汗)。

で、この本を手にした直接のきっかけは、左にリンクもあるが、『全体芸術様式スターリン』あたりの、ロシア・アヴァンギャルドの精神的な理論づけに関する本を読んでみたら、あらあら困った難しい...「レイヨニズム」って?「シュプレマティスム」って?....??? 私って、モグリだったのね(大泣)で、冒頭のようなとこに行き着いたわけだ。

さて、その効果の程はというと...確かにあるっす(笑)。
あくまで通史、つまり現在までの流れを時系列順、各芸術運動の関係性順で網羅してあるだけ(あ、だけとか言ったら悪いか・汗)なので、新しい学説が出てるとか、読むとインスパイヤされちゃうとか、そういうものでもないんだが、各芸術運動の間の連関性というか、何々主義は何たら主義から影響を受けて、さらに何とか主義につながっていった、みたいな因果関係は、とても分かりやすい。
付録で、美術運動の系統図がついていることから、この本の編集意図も、始めからそこにあったことが伺える。

そういう意味では、通して読んでまずは通史を把握、専門分野に入った後でも、手許に置いて用語事典代わりに使うことも出来そうだ。

余談だが、学校で「造形学概論」の課題で「芸術活動における『作品』とはどういうものか論ぜよ」というテーマが出たことがあった。
この本の文中に、思いっきりヒントのフレーズがいくつか載っているじゃないか!
わし、『講座美学』シリーズとか、渡辺護の『芸術学』とか、すっごい難しいの読んじゃって、提出まで1ヶ月半もかかっちゃったよ。
やっぱり、背伸びしないで、基本が大事なのね、何ごとも(泣)

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2004.06.14

『モダン都市の読書空間』永嶺重敏

タイトル:『モダン都市の読書空間』
著者:永嶺重敏
出版社:日本エディタースクール出版部
定価:2600円
初版:2001年3月
ISBN:4-88888-310-6

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先の記事でも触れたが5月末実家に行く用があって、そのついでに父親に「ねーねー、雑誌回読会って、知ってる?」と訊いてみた。
あまり詳しく返事してくれなかったが、「そういえば俺もやってたな、でも、読みたい雑誌がうまく回ってこないから、すぐ辞めた」とのこと。
多分、昭和30年代前半の話のようだ。

で、この「雑誌回読会」という流通システムを、私の人生35年(汗)、生まれて初めて目にしたのが、この本だ。
個人的には、モダンレトロ文化関係は結構好きで、前の『絵とき百貨店「文化誌」』みたいな本も良く読むのだが、それにしても、まだまだ1920、30年代は、奥が深い...。

この本は、戦前の日本において、各社会階層のひとたちがどのように、「読書」という行動を取っていたのか、またそれが出版・流通のシステムとどのように関連していたのか、を調査研究したものだ。
まず興味を引いたのは、著者のデータの取り方だ。
戦前の「東京市」内の各区の住民データ、また施設データなど、一見ごく普通の?行政の記録や、書籍小売組合などの組織の記録を組み合わせて、「下町」と「山の手」の読書行動の違いを解き表してみせる手法には、ひたすら感嘆した。
また、当時の出版業界のトレンドが、震災以降の東京の拡大と、それに伴う「電車通勤」の一般化によって、「通勤時の読書」という新たな読書行動を生み出したことに、大きな影響を受けているという指摘が、大変面白かった。

でもって、その中で大正〜昭和初期まで全盛だったのが、「雑誌回読会」という「読書装置」(筆者は、図書館など、大衆に読書を提供するシステムをまとめてこのように称している)だ。
そのシステムは、一言でいうと「登録会員制雑誌貸本配達システム」で、回読会(というといかにもインディペンデントな会のようだが、実際は会社組織)が数十種類の雑誌を予め用意し、会員はその中から読みたい5誌なり8誌なりを選んで登録すると、3〜4日おきに配達人が回って来て、契約通りに本を取り替えて供給する、というものだ。
筆者は、この回読会の営業記録を元に、会員となった人々の読書行動を分析している。
さらに、回読会が月遅れになった雑誌を地方へ低額で卸売したことが、結果的に都市部以外の低所得層にも、読書の機会を与えたことを指摘している。
しかし、当然ながら、回読会の貸本、古書卸売は、出版業界・小売業界と対立し、裁判に発展した。
この辺のくだりは、殆ど昭和初期版『だれが本を殺すのか』の世界で(笑)、本の流通の問題って、根が深いのね〜と改めて感じた。

また、『文藝春秋』の創刊から、日本トップクラスの発行部数を誇る雑誌に成長した過程を追い、同時にその読者がどのように『文藝春秋』を読んでいたのかを描いている。
『文藝春秋』の発行人である菊池寛が、最初は道楽で始めたつもりが、好評に乗じて、バンバン広告を打ちまくり、売れる雑誌を作るために血眼になる(彼の書いた広告コピーの数々が強烈でツボ!)さまが、妙に笑える。
さらに、当初の『文藝春秋』は、低学歴階層よりの大衆誌『キング』との差別化を図った「知的な」文芸誌を目指していたのが、部数が増えるにつれて、読者層がだんだん『キング』とかぶってしまうあたりが、雑誌、あるいは本の大衆化を意味しているのだと、著者は指摘している。

本書の中では、雑誌だけでなく、いわゆる「円本」として知られている、昭和初期の全集ブームについても、興味深く論じられている。
「円本」、つまり当時の廉価版「●●全集」の類いは、古今東西の名作や学術書(マルクス全集とか!)を、総ふり仮名に改版し、シリーズとして1冊ずつ配本する、というシステムだった。
著者は、この円本ブームが、都市の新しい住宅に住む世帯〜生活道具などの基盤を新たに整える必要のあった〜に、まとまった「蔵書」を提供するシステムであったと指摘する。
また、総ふり仮名によって、読書の大衆化に拍車をかけ、また労働者層にも、マルクスなどの社会理論を読ませることになったと推察している。
ちょうど先日、昭和の初めに岩波から出版された「夏目漱石全集」の一巻を手に取る機会があったのだが、それが総ふり仮名で、「おお、これが円本というやつか!」とひとり感心してしまった(苦笑)。

序章から結びまで、あまりにもベタに感想を書いてしまったが、要は、全部面白かった、ということっす(大汗)。
回読会とか円本とか、レトロ文化の中にも、メジャーに語り継がれていないものが、まだまだあるんだなあと、感じ入った次第。


それにしても、冒頭に書いた父の証言では、回読会(の形態のシステム)が少なくとも50年代まであったことになる。どういうことなのかよく分からないが、父の仕事は税務系だったので、専門雑誌の回読だったのかもしれないな、などと勝手に想像してみたりして..。

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