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2004.08.24

『ヒトラーと退廃芸術 <退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>』関楠生著

タイトル:『ヒトラーと退廃芸術 <退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>』
著者:関楠生
出版社:河出書房新社
定価:2400円
初版:1992年10月
ISBN:4-309-22234-X

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ナチ時代の文化プロパガンダについては、検索してみたら、既に先行研究がたくさんあって、私のような者が、本の感想など書くのも恥ずかしくなってしまったが、それでも浅学なりに(汗)思うところがあるので、ご笑覧いただければ幸いでありんす。

「退廃芸術」という単語だけは、前からちらちらと耳目に触れていた。
だが、それがどのように定義づけられ、どんな扱いを受けてきたか、具体的には勉強不足で詳しく認識していなかった。
そして何より、退廃芸術があるのなら、その反対の「非」退廃的な芸術って、何なのよ。
退廃芸術ということばの露出度とは反対に、それら「ヒトラー御用芸術」がどんなものであったかについては、浅学な私でなくとも、それほど広く知られてはいない分野ではなかろうか。

本書は、日本人のドイツ研究者が、1937年の「退廃芸術展」を核にして、退廃芸術の行方、また御用芸術の扱いを調査しまとめたものだ。
ワイマール政権からナチス政権への流れ、また1930年代までの、モダン・アートの大勢を、大掴みに知っていれば、決して難しくなく、むしろとても読みやすい文章になっている。
しかも、それでいて、内容はさまざまな資料をもとに、多角的に考察されており、研究文献としても十分役立てられるのではないだろうか。

本文では「退廃芸術」の名のもとに、当時の先端表現であった、表現主義以降の芸術表現がことごとくドイツ国内から排除され、あるいは「退廃芸術展」で晒しものにされる過程が綿密に描かれており、その部分だけでも十分に読みごたえはある。
しかし、私がもっと関心を持ったのは、「退廃芸術」の反対にある、「健全」でかつ「ゲルマン民族の美を湛えた」とされる作品群、作家たち、彼らの活動だ。
当局は「退廃芸術家」の排斥をすすめる一方、「大ドイツ芸術展」の開催などを通じて、これら「健全」な美術を広めて行こうとした。
本書では、なかなかメディアに表れにくい、この作品群の図版が、多数紹介されている。

私は、ご覧のとおり(笑)民族崇拝も社会思想関連も、語るにはまるでお門違いな奴だが、特定の社会運動や思想に向かって表現を行おうとするとき、それらの作品がどんな特徴をもつのか、という問題には、思想の方向性に関係なく、関心を持ち続けている。
芸術のあり方は、いつでもどこでも、その時代や地域と深く結び付いてきた。
しかし、特に近代社会に入って、芸術は特定の社会運動に意識的にコミットしはじめ、運動の理念をビジュアル化するメディアとしての役割を、積極的に担うようになった。
ロシア革命から、アジアに、中米に、アメリカに広がったプロレタリア美術、最近では70〜80年代韓国の「民衆美術運動(私の守備範囲ですが・汗)」、また、別の脈絡で、北朝鮮の「人民芸術家」なんかもそういえるだろう。
話を広げて、1930年代の欧米での全体的な美術潮流については、別途読んだ本もあるので、また次の機会に...。

話を戻すが、ナチスドイツの公認芸術がどんな作品なのか、本書で初めて目にした。が、...硬い、ひとことで言って、キツい、というか、つまんない(苦笑)。
例えば絵画であれば、絵のなかの人物が、いきいきして見えないのだ。。
登場人物は「ゲルマン民族の美しさ、健康さ」を具現化した姿でなければならず、弱々しい描写、また他民族(特にユダヤ系的に見える)の表現には、容赦なく「退廃的」のレッテルが貼られた。
結果的に、それら親ナチ美術の表現は、どんどんステレオタイプ化、また記号化していく。

この記号化というのが、やっかいな奴だ。
為政者側からすれば、芸術を自らの広報手段として考えるとき、それはできるだけ多くの人=大衆にとって、分かりやすいものでなけばならないだろう。
そうすると、表現は「記号」=民族の典型像、大家族(ナチスは多産を奨励した)堂々とした農民、勇ましい軍人etc.を多用するようになる。
流行りの言い方をすれば、右脳的 感性で創作、観照するのではなく、左脳 記号の解釈として創作、観照する作品、といえる。
現代の新しい、多様な美術表現や、その観照マナーに慣れている身としては、カタい、つまんない、のびのびして見えない、と感じられるのも無理はない。

もっとも、これは著者も指摘しているとおり、親ナチ運動の旗振りをしていた作家たちが、その政治力に比べて、実力の方は...(汗)だった、という実情も、関係あるかもしれないが。

私がこの本で最も気になっているのが、最終章の、大戦後の話だ。
「大ドイツ芸術展」当時のいわゆる御用作品が、1974年に再度展示されることになった。
ナチ時代は、ドイツ史のなかでも大きなトラウマであることは周知のとおりだが、やはり展示にあたっては反対意見も多かったとのこと。
ところが、いざ公開してみると、「難解な抽象美術よりこちらの方が心地いい」「こうした家族像こそ、私の観たかった絵だ」という反応が、意外に多かったというのだ。
これらの多くは、別にナチ時代への潜在的なノスタルジーがあるとか、あるいはネオナチの対等とか、そういう問題とも違う(いや、現実にナチの再検証が進んでいた時期だけに、そういう憂慮もあったそうだが)、単に「分かりやすい絵が好き」という観照態度も少なくなかったのだ。
観照する側の感性や、美術への知識を云々して、彼らを「見る目のない大衆」と言ってしまうのは簡単だ。
だが、この出来事は、美術作品と社会、個人のあいだの関係性を、改めて問いかける、重要な問題ではないだろうか。

例えば、先に挙げた旧ソ連の社会主義リアリズム美術、メキシコ壁画運動、韓国の民衆美術、すべてに共通した表現課題は、美術教育から疎外されてきた階層に、どういう表現で運動のメッセージを伝えるか?だった。
そのときまず考えられるのは、できるだけ多くの人に「分かる」表現で、という共通認識だ。
大衆に受け入れられる「分かりやすさ」と、芸術としてのクォリティとを、どう両立させるのか、それが、社会運動と美術が結びつくときの、大命題だった。
しかし、それは、確実に送り手の意図通りのメッセージを、受け手に伝えることができるのか?
あるいは、上のドイツの例のように、その作品が作られた社会背景と、作品とを切り離した場合、作品が当初表そうとしていたメッセージは、変化してしまうのだろうか?
例えば、親ナチ作家が当時作った彫刻作品が、後年、旧東ドイツのスローガンと共に設置されていたこともあったそうだ。
また私が初めて、韓国の「民衆版画」を観たとき、こんな木版画で、どうやって社会を動かそうとしたのだろう?と思ってしまったのも、ある意味、無知が招いた誤謬ともいえる...。

もう一つ別の面から考えると、ある集団が社会変革を試みるとき、ナチのようないわゆる帝国主義ファシズムだろうが、韓国の民衆美術のようなボトムアップな労働運動だろうが、結局同じ方法論を使っている、という問題も、看過できないところだ。

...うーん、うまく文章が結べないが、1930年代のある状況を、過去の史実に終わらせず、現代のさまざまな美術運動、また美術と社会、個人の関係を見つめ直すときの、ひとつの指標として生かして行きたい、これでひとまず、私の読後感のまとめとしておきたい。すんません...。

最後に、この本を読んで、彫刻家の「エルンスト・バルラハ」に、ものすごくはまってしまった。
彼の作品は「退廃芸術」として多数紹介されていたが、こんなに心を動かされる作品群が、戦後まで議論を呼ぶことになるとは...、もちろん、個人的な感情で言ってるんですが。

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Comments

この辺の話は確かに難しそうですね。
ぜんぜんレベルが違いますが、僕もかつて(高校生のころ)ヒトラーの水彩画を見て、「あ、結構いいかも」と思ってしまったことがあります(買いはしないですが、カレンダーくらいなら…)。

問題は、「大衆」というものの捉えかたにあるのかな、と思ったりもします。たとえばヒトラーの絵を見た僕や、74年のドイツ人たちは、絵を「記号」としてみることになれていた(記号であることを意識しないほどになれていた)わけですが、この人々はメキシコや韓国の民衆とは少し違うような気がします。。
専門でないので今ひとつ説得力がないのですが、芸術と大衆美術は意外と連続的につながっているのではないか、と僕は思っています。

Posted by: あさ@逃避日記 | 2004.08.24 at 02:23 PM

あささま

コメントありがとうございました。
最近、ココログ側のコメントスパムブロックとやらで、メアド欄をてきとーに書いたりすると、「コメントお知らせ」のメールが届かないみたいでして、お返事がおそくなってしまい、申し訳ありません。

この本では、ヒトラーの描いていた絵についても触れてありますが、ゲッペルスがそれを観て「間違っても総統に個展なんか開かせないようにしなければ」と思って、ヒトラーをその気にさせないように大変だったそうです(笑)。
ゲッペルスというのは、実は結構美術を観る筋のあった人間らしく、退廃芸術キャンペーンが本格化するまでは、表現主義の作家を擁護するような行動をしてたらしいですね。

美術作品の評価が、その社会のありよう、大衆あるいは民衆のありように依存するというのは、私も、とても大切な視点だと思います。
そういう意味でも、芸術と大衆美術を別物として考えることは、連続性があるどころか、不可能ではなかろうかと考えています。
美術は、歴史的にみれば、古くは宗教活動のメディアでもあり、文字に代わる記録媒体でもあり、世界の各地域の文化を知るコミュニケーションツールでもあったわけですから、ボーダーレスに考えても考えすぎということはないと思うのですが。

ただ、学校のスクーリングに行くと、ファインアートの観照を中心にやってきた層と、私のようにデザイン畑からきた層と、ものの見方やアプローチに、はっきりと違いがあることに気づきます。
デザインからアートまで、幅広く学んで考えることの大切さを痛感するこの頃であります。

Posted by: もんもんい | 2004.08.30 at 12:31 AM

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